我が町蕨
突然ですが、皆様は成人式がいつ、どこで、いかなる理由で
始まったかご存知ですか。
今日はその成人式の話と、私が住む埼玉県蕨市をご紹介
したいと思います。
成人式は1946年、敗戦により虚脱状態にあった青年たちに
明るい希望を与え励ますために、後に初代蕨市長や
埼玉県議会議長を務めた高橋庄次郎氏(当時は青年団長)が
発案し、成年式という名で実施したのが始まりで、
後に全国的な行事となりました。
そのため蕨市では今も「成人式」ではなく「成年式」と
呼んでいます。
<蕨市民会館の庭にある成年式発祥の地の像>

<銅像の脇にはサミュエル・ウルマンの青春の歌が和英併記で>

さて、続いて蕨市の紹介です。
蕨市は埼玉県南に位置する町で、面積は全国790の市の中で
最も小さく5.1㎢しかありません。
区町村も含めた全国1,742の市区町村でも小さい方から
10番目です。
ところが東京駅まで乗り換えなしで32分と交通の便もよく、
人口は7万人を超えています。
その為人口密度は13,990人/㎢と市では日本一の人口密度です。
さすがに東京都の区では蕨より人口密度が高い区が15ほど
ありますが、それでも市区町村中16位です。
いかに小さいかというと、東西が4㎞あまり、南北は2㎞も
ありません。
それだけ小さい市なので町も5つしかありません。
市役所の各種申請書の住所欄には蕨市の次の町名まで
印刷してあり丸で囲めばいいようになっています。
<住民票の申請書>

<昨年開業120周年を迎えた蕨駅>

駅の周辺はマンションがたくさんあります。
蕨、川口などの埼玉県南地区には外国人が多く住んでいて、
大型マンションの芝園団地は住民2400世帯の4割が
中国人だそうです。
そんなことから市役所内の案内板の表記も日本語に英語、
中国語、韓国語が併記されています。
<芝園団地(住所は川口市)>

また蕨市の特徴として市内に坂が一か所もないことです。
お隣のさいたま市旧浦和地区や川口市は坂だらけですが、
蕨市と西隣の戸田市には坂がありません。
これは縄文時代まで東京湾が川口市、さいたま市辺りまで
食い込んでいたためです。
その為浦和や川口はリアス式の小さな半島がたくさんあり、
それが多くの坂として残っています。
一方、蕨や戸田は平らな海の底だったものと思われます。
市民以外には書ける人が少ない蕨という難しい地名の
由来は諸説ありますが、今は次の二つが有力視されています。
・源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、
あるいは、在原業平が藁をたいてもてなしを受けた
ところから「藁火」と名付けたという「藁火」説。
・昔この辺りにたくさん生えていた植物の蕨に
由来するという「蕨説」。
<蕨には書き順の蕨Tシャツがあります>

因みに蕨市の総鎮守のわらび神社は「和楽備神社」と
書きます。
<和楽備神社>

蕨は室町時代には足利将軍家の一族渋川氏が蕨城を築き
治めていましたが、室町時代の末期に北条氏綱の攻撃に
より落城、その後渋川氏の死で廃城となりました。
そして江戸時代に入ると中山道69次の内、日本橋から
数えて2番目の宿場町として大いに栄えたそうです。
<蕨宿>

<蕨宿本陣跡>

<本陣跡の隣の歴史民俗資料館>

<旧中山道に面する古い商家>

また、江戸末期には2代目高𣘺新五郎さんが双子織という
綿織物で蕨を機織ものの町に発展させました。
40年ほど前までは市内にいくつか機織りの工場が残って
いましたが、安い外国製品などに押され今は全く残って
いないようです。
2代目高𣘺新五郎さんとその妻いせさんは機神様として、
蕨市塚越の塚越稲荷神社の中にある機神社に祀られています。
<機神社>

現在の蕨は交通利便性の良さで、典型的なベッドタウンと
なっています。
平成の大合併が行われた当時、蕨市もお隣の川口市、
鳩ケ谷市(現在は川口市と合併)と合併協議を進めており、
合併も大詰めに達していました。
しかし、合併協議会の新しい市の名称を決める投票で
「武南市」に決定し、「川口」の名がなくなることが
決まった途端、川口市が反発し一方的に協議会を離脱して
合併構想は幻に終わりました。
その後合併反対派の共産党系現市長の登場で、日本一小さい
ことを逆手に取り、行き届いた住民サービスができる
「あったか市政」を掲げ合併話はなくなりました。
<蕨一の規模を誇る金亀山極楽寺三学院>

<三学院の眼疾地蔵>
通称「めやみじぞう」と呼ばれるお地蔵さんで、眼に味噌を
塗って願をかけると眼病が治ると言われています。

<蕨市役所>

<蕨警察署>
お隣の戸田市には警察署がなく、蕨警察が蕨市と戸田市を
管轄しています。

<河鍋暁斎記念美術館>
河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した狩野派の絵師で
海外でも高い評価を受けています。
その美術館が蕨市にあります。

以上簡単に蕨をご紹介致しました。
始まったかご存知ですか。
今日はその成人式の話と、私が住む埼玉県蕨市をご紹介
したいと思います。
成人式は1946年、敗戦により虚脱状態にあった青年たちに
明るい希望を与え励ますために、後に初代蕨市長や
埼玉県議会議長を務めた高橋庄次郎氏(当時は青年団長)が
発案し、成年式という名で実施したのが始まりで、
後に全国的な行事となりました。
そのため蕨市では今も「成人式」ではなく「成年式」と
呼んでいます。
<蕨市民会館の庭にある成年式発祥の地の像>

<銅像の脇にはサミュエル・ウルマンの青春の歌が和英併記で>

さて、続いて蕨市の紹介です。
蕨市は埼玉県南に位置する町で、面積は全国790の市の中で
最も小さく5.1㎢しかありません。
区町村も含めた全国1,742の市区町村でも小さい方から
10番目です。
ところが東京駅まで乗り換えなしで32分と交通の便もよく、
人口は7万人を超えています。
その為人口密度は13,990人/㎢と市では日本一の人口密度です。
さすがに東京都の区では蕨より人口密度が高い区が15ほど
ありますが、それでも市区町村中16位です。
いかに小さいかというと、東西が4㎞あまり、南北は2㎞も
ありません。
それだけ小さい市なので町も5つしかありません。
市役所の各種申請書の住所欄には蕨市の次の町名まで
印刷してあり丸で囲めばいいようになっています。
<住民票の申請書>

<昨年開業120周年を迎えた蕨駅>

駅の周辺はマンションがたくさんあります。
蕨、川口などの埼玉県南地区には外国人が多く住んでいて、
大型マンションの芝園団地は住民2400世帯の4割が
中国人だそうです。
そんなことから市役所内の案内板の表記も日本語に英語、
中国語、韓国語が併記されています。
<芝園団地(住所は川口市)>

また蕨市の特徴として市内に坂が一か所もないことです。
お隣のさいたま市旧浦和地区や川口市は坂だらけですが、
蕨市と西隣の戸田市には坂がありません。
これは縄文時代まで東京湾が川口市、さいたま市辺りまで
食い込んでいたためです。
その為浦和や川口はリアス式の小さな半島がたくさんあり、
それが多くの坂として残っています。
一方、蕨や戸田は平らな海の底だったものと思われます。
市民以外には書ける人が少ない蕨という難しい地名の
由来は諸説ありますが、今は次の二つが有力視されています。
・源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、
あるいは、在原業平が藁をたいてもてなしを受けた
ところから「藁火」と名付けたという「藁火」説。
・昔この辺りにたくさん生えていた植物の蕨に
由来するという「蕨説」。
<蕨には書き順の蕨Tシャツがあります>

因みに蕨市の総鎮守のわらび神社は「和楽備神社」と
書きます。
<和楽備神社>

蕨は室町時代には足利将軍家の一族渋川氏が蕨城を築き
治めていましたが、室町時代の末期に北条氏綱の攻撃に
より落城、その後渋川氏の死で廃城となりました。
そして江戸時代に入ると中山道69次の内、日本橋から
数えて2番目の宿場町として大いに栄えたそうです。
<蕨宿>

<蕨宿本陣跡>

<本陣跡の隣の歴史民俗資料館>

<旧中山道に面する古い商家>

また、江戸末期には2代目高𣘺新五郎さんが双子織という
綿織物で蕨を機織ものの町に発展させました。
40年ほど前までは市内にいくつか機織りの工場が残って
いましたが、安い外国製品などに押され今は全く残って
いないようです。
2代目高𣘺新五郎さんとその妻いせさんは機神様として、
蕨市塚越の塚越稲荷神社の中にある機神社に祀られています。
<機神社>

現在の蕨は交通利便性の良さで、典型的なベッドタウンと
なっています。
平成の大合併が行われた当時、蕨市もお隣の川口市、
鳩ケ谷市(現在は川口市と合併)と合併協議を進めており、
合併も大詰めに達していました。
しかし、合併協議会の新しい市の名称を決める投票で
「武南市」に決定し、「川口」の名がなくなることが
決まった途端、川口市が反発し一方的に協議会を離脱して
合併構想は幻に終わりました。
その後合併反対派の共産党系現市長の登場で、日本一小さい
ことを逆手に取り、行き届いた住民サービスができる
「あったか市政」を掲げ合併話はなくなりました。
<蕨一の規模を誇る金亀山極楽寺三学院>

<三学院の眼疾地蔵>
通称「めやみじぞう」と呼ばれるお地蔵さんで、眼に味噌を
塗って願をかけると眼病が治ると言われています。

<蕨市役所>

<蕨警察署>
お隣の戸田市には警察署がなく、蕨警察が蕨市と戸田市を
管轄しています。

<河鍋暁斎記念美術館>
河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した狩野派の絵師で
海外でも高い評価を受けています。
その美術館が蕨市にあります。

以上簡単に蕨をご紹介致しました。
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